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物理学第一分野、物理学第二分野の歴史

物理学教室の沿革

1897(明治30)年 6月 京都帝国大学を設置。
1897(明治30)年 9月 理工科大学の開設。
1898(明治31)年 6月 数学科、物理学科、純正化学科の設置。
1914(大正3)年 7月 理工科大学を理科大学、工科大学に分離。
1919(大正8)年 2月 理科大学が理学部となる。
1947(昭和22)年10月 京都帝国大学を京都大学と改称。
1953(昭和28)年 4月 大学院理学研究科を設置。
1994(平成6)年 4月 9学科を廃止し理学科に改組。
理学研究科の改組(一年次)を行なう。
1995(平成7)年 4月 理学研究科の改組(二年次)により、物理学・宇宙物理学専攻を設置。
大学院理学研究科を部局化。

建物と歴史的実験装置

 京都大学(その前身京都帝国大学)は 明治30(1897)年6月に創設された。今年は100周年にあたる。旧制第三高等学校の敷地と建物を引き継いで、現本部キャンバスの一角に理工科大学が設立された。当初 法、理工、医、文の順に4分科大学が設置される計画であったが、理工科大学が先行した。法、医の両分科大学は2年後に発足し、文科大学の設置は明治39(1906)年であった。物理学教室の前身は理工科大学の中の三つの3講座として発足した。まさに量子物理学への扉が開き始めた時期である。
 初代の教授陣は第一講座 山口鋭之助 教授、第二講座 村岡範為馳 教授、第三講座 田丸卓郎 助教授、後に(1905年以降)水野敏之丞 教授あった。 明治40(1907)年に第4講座が設置され、大正3(1914)年7月、理工科大学は理科大学と工科大学に分離した。大正5(1916)年 幅射学・放射学講座および共通講座の応用数学応用力学講座が設置された。 その後航空物理学講座、第五講座(1943年)および第六講座(1945年)が設置され敗戦を迎えた。 京大物理学教室の変遷
 初期の建物は本部構内の西側、現学生部の赤煉瓦建物であった。
初期の物理・数学教室
二階は大正11年に増築された。
 当時の階段教室は、学生部留学生課の西側にあり、現在はL.L 教室に使用されている。大正5(1916)年に新設された塙射学・放射学講座の建物ひと棟がその西側に新築された。現在 京大学士山岳会が入っている。 旧輻射学放射学講座建物

 昭和3(1928)年に市電東山線が百万辺まで延長・運転され、その振動が実験の精密測定に影響するので、昭和5(1930)年に現本部キャンバスの旧建物から北部キャンバスの現在地に移転した。 旧物理学教室全景(含北館)
 昭和12(1937)年に現北館が建設され、本部キャンバスに残っていた講義室や学生実験室が移転するとともに、第4講座に着任された荒勝文策教授により、コックロフト・ワルトン型静電加速器が設置された。戦後になり、昭和33(1958)年に原子核理学科が設置され、翌1959年に急遽 現北館屋上にプレハブ研究室が増設された。引き続き南館屋上にもプレハブ研究室が設置された。北館屋上のプレハブは現在も存続している。原子核理学科の設置と相まって、昭和37(1967)年にタンデムバンデグラフ加速器の予算交付が決定し、翌昭和38年、タンデム実験棟が中庭東側 旧変電室・電池室 跡地付近に建設された。 建設当時のバンデ実験棟
手前左側中庭に木造の旧工場が。中央に用務員室と石炭置場が、右端に二階建ての旧南館の一部が見える。

 一方、昭和37~40(1962~65)年の理工系拡充期に物理学科は倍増され、大幅な増改築がおこなわれた。その際、北館の一部、木造の第三講義室および南館の大部分がとり壊され、第1期および第2期工事により5階建の現建物の大部分が建設され、昭和41(1966)年に竣工した。 現物理学教室
 資格面積の関係上、東側に旧南館の一部が残った。新築建物は一律基準面積に縛られ、狭陸を窮めた。そのため当時まで保存されていた古い実験装置や機器類が大量に廃棄された。昭和55(1981)年に旧南館の残存建物が撤去され、現建物南館の第4講義室以東の部分が増築され、現在の建物が完成した。この時、中庭にあった木造の工作室や実験室等が撤去され、植樹とコートが整備された。 昭和60(1985)年にトーラス型プラズマ加熱実験装置(WT-3)用の実験棟が南館の南側、旧食料科学研究所跡地に建設された。これは平成 6(1996)年度より発足したエネルギー科学研究科に移管・統合された。 筆者は昨年3月に定年退職したが、それを機に研究室および身辺の整理を行った。 それと並行して、古い実験装置や機器類と、教室の備品カードや旧塙射学放射学講座に残っていた創立期からの備品簿との照合確認の作業を始めた。ここではその中間報告をおこなう。 プラズマ実験棟

 往時の教室全体の備品台帳はすでに無い。また教室の備品カードも、倍増期に大量に廃棄された備品とともに抹消され廃棄されているので、戦前の機器の備品カードで残っているのは少ないが、これとの照合も併せて行っている。 推測するに、創立当初は教室全体で備品の管理が行われていたようであり、"通し番号"が付されていた。大正期になり講座の専門が確立した頃から、講座毎にそれぞれの専門の備品を管理するようになり、教室全体の備品台帳の他に、講座毎の備品簿が保持されたようである。上述の 幅射学・放射学講座の備品簿はこれに対応するものであり、創立期からの同講座関係の備品が記載されている。戦後 備品は種類毎に分類されて新たな番号がつけられたので、戦前の備品には二重に番号がついている。

 表1は照合できた百数十点の備品リストからの抜粋で、創立期から敗戦時期までの備品のうちの主なものを記載してある。表中の備品番号は一部新・旧二重の番号がついている。確認できた備品は、旧幅射学放射学講座の光学、分光学関係のものが主で、他に旧第一講座、および第三講座のものも一部含まれている。残っていた備品簿には既に廃棄された装置や機器類も記載されており、価格、納入者、製造会社等も確認できる。分光学関係の備品は主に 英国Adam Hilger社から購入されているが、大正後期からは島津製のものも増えている。また昭和初期からは、完成品よりも部品の購入が増え、それ等を用いて 組立または自作した装置が多くなっている。実験装置と研究内容の推移についても調査中である。

 推測するに、第一講座は電子線、X線の実験装置が主で、高電圧と真空装置が多かったためか、老朽化したものは改築の際ほとんど廃棄された。第三講座の電波分光関係では真空管を用いた機器や計測器が多く、これも古いものは使用に耐えないので、廃棄されたものが多いと思われる。これに比して、光学・分光学関係の機器が多く残っているのは、比較的コンパクトで、しかも腐蝕する度合いが少なく、一見、貴重そうに見える機器が多かったのと、当時の内田洋一先生が保存に努力されたためであろう。